20080218

あこがれ






俺はずっとあこがれてる。
アンディ・ウォーホルに。

最近「作家性」という言葉が気になっていて。

建築やその他のデザインと違い、グラフィックデザインというものは、消費されるものです。
考えに考えて痛い思いしてひねりだした生産なのに、時が過ぎれば、ただのゴミになる。
無いならないでもいいし、最悪何も描かないってのもグラフィックになりうる。

俺は多分そういうところに惹かれてるって気がしてきた。
うん、惹かれてる。

そこで、ふと疑問に思ったのが、まぁ例えば広告なんかでいえば、誰が作ったかなんか(分かる人には分かるといっても)大抵分からないようになっている、ということ。

数世代前のものを見てみると、横尾忠則やサイトウマコトなんか、超作家性を最大限押してるわけで。そして、それを見てただ単純に「かっけー」って思ってる自分がいます。
そして実際に彼らの「制作物」は「作品」として美術館なんかにも所蔵されてて、ゴミになってない。

けど、現状はどうか。
色々知ってくると「ああ、誰々っぽいな」とはなるものの、大抵のグラフィックは、その商品やらサービスやらを最大限に引き出しとって、誰が作ったとかは、消す方が健全だとされてる。
美学みたいになっとる。

そうかなぁ。
不満。

海外の作家でいえば、ディック・ブルーナやレイモン・サビニャックなんか、素晴らしいデザインかつ「っぽさ」も持ち合わせたお方たち。

そういうほうがかっこいいんじゃないかって思うのです。
ほんと純粋に、絵がとか文字がとかじゃなくて、やり方として。

世の中はループするって聞いたことがあります。
一昔前のものが再ブームになったり、ファッションなんか分かりやすいね。

だから今均一になって、ぼんやりしてきた世の中だからこそ、強い作家性を持ったグラフィックがまた生きてくるのでは?と思ってるわけです。

収集がつかなくなってきたけど、このまま暴走してみます。

そんなことをふと考えてみたときに、これまたふと思い浮かんだのがアンディ。
そう、アンディ・ウォーホル。

彼は、独断と偏見の塊で言わせてもらえば、超かっこいい。
なんてったって、自分の顔をどしどし前に出してくるんだもの。
そんなやつみたことねーよ。
ポップと呼ばれることについてはよう知らんけど、作家性の極みのような気がして、うらやましゅーてしょうがない。

その作家性ってのは、今はやりのブランディングにも通ずるものがあると思う。
アンディ・ウォーホルって、いってみればもう、そういうブランドやん?

コントラストが強い写真にペインティングした作品群。
毛沢東やマリリン・モンローとか、時代のスター(語弊あり)を題材にするあたり。
キャンベルに代表される大量生産に対するアンチテーゼを作品の主題にするあたり。
改めて秀逸です。

ただウォーホル好きやなーっていいたかっただけなのに、偉そうにこうぬけぬけと書いてしまったのだけれど、まぁこういう日もたまにはいいよね。

あー、俺もかっけーじいさんになりたいわ。



以上。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

かっけーじいさんには俺もなりたいけど、この手の話はなんか難しいね。
やっぱ、各々の役割じゃないの。
作家性をガンガン押し出してくる人と、自分を最大限消した作品を創り出す人はそれぞれ需要があると思うし、俺みたいな外の人間からしたら選択の幅があったほうがいいんじゃない?

もし、ttmさんが言うように今のグラフィックにおいて「作家性」を消すほうが健全とされとるんなら、その逆を行くのは大アリでしょ。
やっぱものづくりをする人間にとって、自分を作品の中に組み込みたいと思うのは自然の流れだと思うし。

ところで、この3つの画像は何?

N さんのコメント...

おお、おお、おお。
またしても024@宣伝部長さん、いらっしゃい。

そうなのよ。
それで、そっちに行きたいなぁって話なわけよ。

なんかさぁ、ちょっと聞いてくれる?
俺、最近とげとげしさがなくなったって、ほんとによく言われるとよ。
で、いやー、そりゃいかんなーって思ってさ。そしたら、あーだこーだでこんなことになったしまったってわけ。
自己主張せなね!

まぁ、なにはともあれ、熱ぶってこんなことをブログで書いてるようなやつはだめと思うよ。
↑卑屈さは今年も健在。

三つの画像は、ウォーホルとその作品2つです!